実りの秋、誰がくれたか問題

教会にある柿の木から採れたての柿をいただきました!

皆様、こんにちは。世界を愛で語るブログご無沙汰で第83回です。

実りの秋、教会の柿の木が豊かに実っています。牧師さんがこれを自由に持ち帰れるようにして下さいました。

まさに実りの秋!

下さった神様、感謝します!

ところで、この場合、法律ではどうなるのでしょうか。無償で差し上げているので、「贈与」となります。

それで終わり?そうなのです。誰から誰にあげたかは、問題ではありません。その行為は、法律では、贈与、それだけです。

でも、誰からもらったか、が、人生ではもっと重要ではないのか、という私が昔から勝手に考えている命題があります。

誰がくれたか問題。

私は中学1年生からラグビーを始めました。したがって、当時の私にとってのヒーローはラグビー選手でした(他にプロレスラーという流れがありますが割愛)。

中学2年生のとき、日本に来日したかの有名なオールブラックスのキャプテン、デービッド・カーク選手を試合後に出待ちしたことがありました(たぶん、「出待ち」という行為をしたのは40年以上の人生でこれ一度だけです)。

その時、私は運良く、カーク選手がスポンサーからもらって配っていた練習用のスパイクをもらいました。

その時は、それがあまりに嬉しく、貴重なものに感じられて、「カークからのプレゼント」と壁に書いて神棚よろしく飾っておきました(数ヵ月後から使ってしまいましたが)。

知らない人から見たら、「ってか、カーク誰やねん。」でしょう。

でも、それくらい、カーク選手から貰った、というのがインパクトありました。

今では、誰からもらったら大きいか、と言えば、娘です。娘が初めて買ってくれたパンの話を以前しましたが、嬉しくてブログに書いてしまいました(愛のパン)。

まあ、それはまだ共感してくださる方が多いかもですが、、、。

要は、ただでもらえたから、贈与だから嬉しいのではない(ただより高いものはないという言葉もある。)。

もらうものより、誰からもらうか、がその人にとっての貴重さを決めるのではないか、というのがこの命題のテーマです。

この柿も、クリスチャンだから、神様が下さった!ともちろん考えます。だから嬉しいです。でも、「神様」をどれくらい近く感じられるのかな、と。

幼い頃のヒーローであるラグビー選手のように感じるのか。ヒーローのような神様。

娘のような目にいれても痛くない愛する存在なのか。愛する神様。でも、この立ち位置はない、、、。

妻氏のように、愛して、毎日話して、毎日一緒に考えて、一生一緒に生きる。いつも側にいる神様。

どこまで近く、どこまで一緒に生きられるでしょうか。もちろん、愛する神様ですが、できれば、妻氏のようにいつも近く、生きていたい!とやっぱり考えました。

柿をくれた神様は、いつも共にいる愛の神様

ちなみに、昔、うちのお母さんは、プロレスラーの方のサインをもらってきて、喜んで壁に張ってました。僕らより嬉しそうでした。きっと息子たちのせいです。

世界を愛で語るブログでした。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。