洗濯しながら

昔、娘も横浜の動物園でラクダに乗せてもらいました。

皆様、こんにちは。世界を愛で語るブログ、2021年第3回です。

朝、洗濯機を回しながら聖書を読んでいました。

少なくとも私たちの祖父の時代くらいまでは、洗濯機もなく、だいたい洗濯板を使っていたことを思うと、こんな風に洗濯しながら本を読むわけにもいかなかっただろうなあ、としみじみ思ったりもしました。

今からすれば、随分と不便で大昔のようですが、それも70~80年前の話ですから、イエス様のいらした2000年前って、本当にどんな世界だったんだろう、と想像をめぐらしながら読みました。

私が前から気になっていた箇所があります。

マタイによる福音書23章24節

盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。

なんとなく意味は分かるのですが、、、ぶよ?ってあの小さい虫?を「こす」?らくだ?飲み込む?

という訳で、今回は調べてみました。

ぶよは、モーセの出エジプトの場面でも登場する害虫ですが、体長は3ミリ~5ミリととても小さいです。蚊の更に小さい版のイメージでしょうか。

そして、そんなぶよは、旧約聖書では、忌まわしいものとして、食べてはならない動物の1つに分類されていました(レビ記11:20)。

そこで、当時のイスラエル民族は、ぶよの死骸などが飲み物に混入したりしないよう、飲み物を瓶にいれるときに、布などで濾していたそうです。

おそらく、食べてはいけないものの中で、最も小さいのが、ぶよでした。

一方、ラクダですが、ラクダは、イスラエルに住んでいる人たちが普段目にすることのできる中で、最も大きい動物でした。

象とかいないんですね。

だから、「ラクダが針の穴を通るよりも難しい。」(マタイ19:24)と別の場面では表現されました。

そして、ラクダは食べてはいけない動物で一番大きな動物でした(レビ記11:4)。

つまり、イエス様は、ぶよみたいなめちゃくちゃ小さいものには食べないようにとこだわる癖に、ラクダ級の、つまり、一番でっかいものはスルーしてる(飲み込んじゃってる)んではないか、と、おっしゃりたかったんだと思います。たぶん。

その手前では、「はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。」(マタイ23:23)ともおっしゃっています。

薬味は、野菜や穀物に比べたら些細なもので、そんなとこまで、ちゃんと十分の一、宮に納めているぞ、細かいとこまで律法守ってるぞ、とどや顔してるけど、そんな細かいことより、一番大切なものは守ってないやん、と。

イエス様は、更に、繰り返し、「私が好むのは憐れみであって、生け贄ではない。」(マタイ9:13、12:7)と、旧約聖書を(たぶんホセア6:6)を引用しながら、神様の心情を代弁して、極めて精緻な論理で律法学者やパリサイ人を厳しく指摘していたんですね。

そりゃあ、ぐうの音も出ないですよね。ぐうう。

私は、もう一ヶ所気になるところがあります。

それは、イエス様の教えを聞いた群衆の反応です。

マタイによる福音書7章28節~29節

イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。

…律法学者って権威ないのか?結構偉いと思ってたが、、、と思ってしまっていました。

でも、イエス様のおっしゃったような感じであれば、イエス様は、少なくとも、ちょっと情けない「律法学者たちのよう」ではなかったのだと思います。

「権威ある」というのは、最も権威のある方、すなわち、神様が話されるように話された、ということなのかなあ、と感じました。やっぱりイエス様、群衆の希望の星だったんでしょうね。

最後に、そんなにも厳しいイエス様ですが、その心は、、、

マタイによる福音書23章37節

ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。

泣いていたんですよね。ぴえんではなく、だばーです。またもや。

そんなこんなで、マタイ読了。

読めば読むほど深い愛

世界を愛で語るブログでした。ちょっと聖書に寄りすぎました。以上はすべて、聖書を読んだ個人の感想です。新年なのでお許し下さい。読んで下さり、ありがとうございます。