日: 2021年7月16日

奇跡の40年(数字の神様2)

奇跡の40年(数字の神様2)

皆様、こんにちは。世界を愛で語るブログ2021年第23回です。今回も数字で語る?ブログです。

またまた最近の裁判ですが、こちらは求刑40年という事件がありました。

https://mainichi.jp/articles/20210715/k00/00m/040/248000c

何が奇跡かというと、日本では、通常、裁判で無期懲役を選択しない限り、期間のある懲役(有期懲役、といいます。)の刑期の最大は、どんなに罪を重ねても30年なんです。

しかし、今回、40年という求刑になりました。これは、そこそこ珍しい求刑です。

普通、2つ以上の犯罪を犯して裁判をする場合で、懲役になる時は、刑期の上限は、どんなにたくさん罪があっても、一番長い刑期の1.5倍までと決められていて、そのまま足し算にはならないのです。

無期懲役以外の懲役刑でいちばん長いのは20年なので、懲役刑は、通常であれば、無期でなければどんなに長くても30年までです。

しかし、例外が一つだけあります。それが、真ん中の犯罪が先に見つかって、判決を受けた場合です。

できるだけ分かりやすく説明するために、ある人が、A、B、Cの順番で、犯罪を犯したとします。

時系列どおり、Aが先に発覚して判決を受け、それからB、Cと発覚して同時に判決を受ける場合、BとCは併せて30年が上限になります(しかし、このケースは、ほとんどの場合、ABCまとめて判決されます。)。

Cで先に判決を受けてから、A、Bが発覚して裁判をする場合は、A、B、C全部併せて上限は30年になります。

しかし、Bが最初に発覚して判決を受けると、AとBを併せて30年という上限はあるものの、Cは全く別になり、AとCは併せて最大40年まで判決できることになるのです。そして、AとCがそれぞれ複数あったりしますと、最大は60年になります。

不思議なことなのですが、これは制度の問題で致し方ありません。

そういうわけで、今回は40年という求刑になりました。40年というと人の一生を考えるととても長い期間です。刑期が終わる頃には、自分もおじいさんになるか、刑期の中で人生を終えるかもしれません。

聖書でも、40年は特別な期間です。そう、まさに刑罰の期間。

イスラエル民族は、モーセに導かれてエジプトを出ました。十の災いが起こり、紅海が割れるなど、めちゃくちゃ奇跡の連続だったのに、この人たちは、エジプトから出ると、すぐに生活が辛いといって神様に不平不満ばかり言いました。それで、目的地のカナンに行くことを一向に許してもらえませんでした。結局、途中の何もないシンの荒野に40年間、いるしかありませんでした。

40年ですから、不平不満ばかり言っていたイスラエル民族の大人たちは、みるみる年を取って、目的地の、乳と蜜の流れる理想郷といわれたカナンに入ることができないまま死んでいきました。そして、モーセもカナンに行くことができずに死に、その付き人だったヨシュアと、シンの荒野で生まれた子供たちが、エジプトを出て40年が過ぎてから、ようやくカナンに入ることができたのでした。

いわば、刑罰の40年。シンの荒野で生まれた子供たちも立派な成人です。人の人生にはあまりにも長すぎる。神様には、やはり不平不満よりも、いつも愛と感謝の心で接したいものです。

愛と感謝で刑罰よりも祝福を

世界を愛で語るブログでした。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

7年の重み(数字の神様1)

7年の重み(数字の神様1)

皆さま、こんにちは。世界を愛で語るブログ2021年第22回です。今回は数字で語る?ブログです。

最近、著名な交通事故の裁判で、検察官が禁錮7年を求刑した事件がありました。とても話題になっているので、ご存じのかたも多いと思います。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/116875

禁錮というのは、懲役と異なり、刑務作業がなく、刑務所にその期間入るだけの刑罰のことです。交通事件の刑罰は懲役ではなく禁錮になることが多いです。

そして、実は、この7年という数字には、目には見えない重みがあります。

刑事事件の裁判では、最終的に判決を出すのは裁判官です。しかし、その手前で、刑罰を要求する検察官と、被告人を擁護する弁護士は、それぞれ、判決に対して意見を述べることができます。この時の検察官の意見を求刑といいます。

有罪率が98~99%といわれる日本では、判決のほとんどは、検察官の求刑の7~8割に収まると言われています。

また、検察官は、判決が求刑の半分以下になると青ざめます。実は、求刑の半分以下になると、その検察庁で、検察官全体が参加する会議で判決を検証し、控訴、すなわち一つ上の裁判所に訴えるかを決めなければならないからです。

ですから、検察官の求刑には、それなりに重みがあります。

そして、今回の求刑は禁錮7年でした。もちろん、可能な求刑として最大というのもあるのですが、これは6年とは全く意味合いが異なります。

6年の半分は、3年。3年は、執行猶予が付けられる上限の期間です。執行猶予というのは、簡単に言えば、判決を受けても、一定の期間、他の犯罪を犯さずに過ごせば、刑務所に行かなくてもよい、という制度で、これがつくと刑務所にいかなくてすみます。

しかし、7年の半分は3年6ヶ月です。つまり、求刑の半分になっても、執行猶予はつけられません。必ず刑務所にいきます。このような刑務所にいく判決を、執行猶予のついた判決と区別して実刑判決といいます。

今回のような有名な事件では、おそらくかなり上まで話が通った上で、求刑が決まっています。

その上で、求刑が7年というのは、検察官、検察庁は、刑務所にいくこと、3年以下で執行猶予がつけば、必ず上訴する、実刑判決を断固として求める、という意思表示でしょう。7年には、そこに込められた意味に重みがあります。

聖書でも、7年というと、ヤコブがお嫁さんをもらうために働いた期間であり、一定の苦労する期間として書かれています(実際には、お嫁さんを2人もらったので、7年を2回、14年働いたのですが)。

聖書の数字にも意味があります。そこに込められた神様の思いにも、心を馳せたいと思います。私たちの人生にも、神様の数字があるのに気づけるでしょうか。もし、そこに込められた神様の気持ちが分かったら、私は嬉しいです。

愛の神様は、数字の神様

今回は、世界を数字で語るブログでした。最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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