今年も終わりですが、、、

皆様、こんにちは。世界を愛で語るブログ、2021年第27回です。

後20日くらいで2021年も終わります。まさに、もうすぐ、2021年とさようならをする時です。

そんななか、先日、70代の親族の方が、すい臓癌が原因で亡くなられました。

ご時世なので、家族葬という形でお見送りをするということで、妻娘と3人で参列させていただきました。

旧約聖書には、祝いの席より悲しみの席に行くほうがまさる、とあります。

旧約聖書 伝道の書7章

1. 良き名は良き油にまさり、死ぬる日は生るる日にまさる。

2.悲しみの家にはいるのは、宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる。

伝道の書は、肉体の人生に限りがあること、そしてそれがいかに空しいかを、地上で最も栄華を享受したソロモン王が語るので、そこに説得力があります。

ソロモン王は、肉体は塵になって終わり、神様のもとに行くのは霊だから、若いときから、肉のことだけでなく霊のことを考えて生きなさい、と語ります。

亡くなられた方の遺影を見ながら、その霊のことを神様に切実にお願いしてお祈りしました。そして、最後のお別れをして、肉体は火葬されました。

当たり前ですが、その肉体は二度と生き返ることはありません。

聖書には、預言者やイエス様が、死んだ人を生き返らせる場面はあります。

しかし、火葬されて骨になった人が生き返る、ということはさすがに記されていません(たとえば、エゼキエル預言者が幻で見たものは別ですが)。

使徒パウロが、私たちは日々死んでいる、と言い、肉だけに生きることから霊を考えて生きるようになることを、死ぬ、と表現されましたが、完全に死ぬというのは、生き返ることは絶対にないくらい、骨と灰になるくらいなのだと実感しました。

死ぬほどがんばる、とか、死んだ気でやろう、とよく言いますが、過去の自分に戻ることがないほど、完全に変化するなら、確かに死ぬことと同じだなあ、と思います。

平たくいえば、使徒パウロは、毎日死ぬほど神様を愛している、神様の気に入られるように変わりたい、と告白していたんだなあ、などとも考え込みました。

そのくらいもっと頑張らなあかん。年末やし最後くらいもっと頑張ってみよう!

そんなこんなで感慨深く考えていたら、9歳の娘が、「死んだら、遺留品はどうなるのか?相続というのは知っているが、親も子供もきょうだいもいないとどうなるのか?」等と、熱心に聞いてきました。

弁護士なんてそんなもので、おおっ!いいとこ気づいたね!それな!と瞬間スイッチが入って、「原則は国に持ってかれるから、そうしないためには、、、」等と、小学生相手に、若干本気で相続のアドバイスをしてしまったのでした。

とにかく

年末まで、死ぬほど頑張って神様愛してみよう

最後まで読んで下さり、ありがとうございます。今年も、最後まで、もう少しだけ、お付き合い下さい。