研究心3 反射的な言い分の合理性

皆様、こんにちは。世界を愛で語るブログです。

私は結婚して12年ほどになりますから、妻とはそれ以前からも含めてのお付き合いとなり、それまでしてきた、対話の数を数えると、1日一回でも4000回ほどになります。

いい加減、以心伝心となりそうなのですが、コミュニケーションというのは奥が深いと感じることがありました。

今朝、私の携帯にセットしてあるタイマーがバイブで作動し、ブブブッ、ブブブッ、と、4-5回くらい、鳴り続けました。

家には娘はおらず、妻は起きていて、私は仮眠していましたが、私がぱっと起きて止めました。すると妻が

「こういうとき、私は気にならん、いつか止まる、と思うけど、あなたは気にして止めるんだよね、面白い」

と笑いました。それは、私も、長年の付き合いで分かっていました。しかし、私は反射的に

「他の人が気になると思って」

と話しました(私声が小さいので妻に聞こえてたか不明)。ここで対話は終わりましたが、よく考えてみますと

他の人が気になる→ しかし唯一の他の人である妻は携帯のバイブ気にならない→ 他の人が気になるだけなら止めなくてもよい

となるはずです。

それなら、わざわざ他の人を理由にバイブを止める必要はないわけです。

そこでもう一度自分でも考えてみると、「他の人が気になると思って」というものの、本当に気になっているのは自分だったのではないか、と考えるようになりました。

それなのに、反射的に(自分なりに)見映えのいい(と考えている)言い分をしていたのかもしれない、、、とさらに考えてみましたが

別にだからといって本当に見映えがいいわけでもなく、

実際には「家には妻しかいなくて、妻はバイブ気にならない」まで考えてなかった、ということでした。

そりゃそうか、寝てるんやし。気になる人が起きてたら自分で止めるやろうし

結論はですね。

私は考えすぎで、妻の言語化は過不足なく的確だった

ということでした。深くもなんともないやん。

まあ、自分の心を研究し、点検することは大切です( ̄▽ ̄;) 反射的な言い分に自分の心が現れることはままあるので。

油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。(旧約聖書 箴言 4:23)

神様は、私たちの心をいつも見られます。

わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る (旧約聖書 サムエル記上 16:7)

皆様もこのブログを温かい心で見守ってください、、、世界を愛で語るブログでした(^_^;)